
生い立ち
物心がついたついた頃
とても辛い環境から始まりました。
孤独と恐怖を忘れるための毎日。
誰でも良かった
孤独と恐怖が忘れられるのなら
一緒に遊んでくれる人は
心を救ってくれる存在。
私にとっては
みんながお友達だった。
私にとって「人」という存在は
本来は癒しを与えてくれるものでした。
どんなに恐怖に押しつぶされそうになっても
人と一緒にいると救われた。
だから私は
人を嫌うことができませんでした。
しかし
現実の世界は
生きていくためには「嫌いな人」を作り
共通の敵を持つことが必要だと
いじめを通して思い知らされました。
私は自分に嘘をつくことが出来ず
嫌いではない人を嫌うふりができない。
その不器用さゆえに
学生時代はいじめの対象にされました。
家でも学校でも
私が安心していられる場所は
どこにもなかった
心はいつも独りぼっちで
ただただ時間が過ぎるのを
見つめているような毎日だった。と
――私はただ
みんなと仲良くしたかっただけなのに
どうして人は
楽しく一緒に遊べないのだろう。
どうして人は、人を嫌うのだろう。
その問いこそが
私が人の心に興味を持つ
最初のきっかけだったのかもしれません。
天から与えられた真理
心理哲学の歩み
 
辛い子ども時代のただ中で
私はふいに「生きる喜び」を
悟らされました。
悲しみや淋しさ、苦しみ――
本来は辛い心の痛みですら
感じられる人間という存在そのものが
どれほど素晴らしいのか。
その瞬間、私はただただ
生きる喜びと感謝に満たされたのです。
若い頃
自分に嘘をついて生きていることに気づき
深い違和感を抱きました。
そのとき頭の中で声が響きました。
「素直になればいいんだよ」と。
その声に導かれ
心の奥に閉ざしていた扉を開いたとき
幸せが満ち溢れました。
けれども翌日にはまた扉は閉ざされ
私は悟ります。
――扉を開かなければ
人は本当の幸せを感じられないのだと。
哲学の日々と
新たな導き
それから数年後
ノートに考えを綴る日々のなかで
三度目の導きが訪れました。
目は部屋を見ているのに
頭の中には草原の景色。
「魂は永遠なんだよ」と告げる声。
時間は直線ではなく
波のように揺らめいていること――
生も死も、争いも、
すべては自然の流れであり
悲しむ必要のないものだと
悟らされたのです。
その直後、
私の身体はエネルギー体のようになり
「私はここにいる」という
圧倒的な存在感と
これまでにない幸福感に包まれました。
それはまるで
聖書に描かれる天国
至福そのもののようでした。
私はその後も25歳頃まで
哲学をし、語り続けました。
使命だと思っていたからです。
けれども理解されることは少なく
やがて口にするのをやめてしまいました。
遠回りの学び
そして心理哲学から真理哲学へ
その後、20年ほどは
導きがあったことを
なかったことにして生きました。
ただ、心理学や哲学は手放せず
やがて占い師としての道を歩み始めます。
が、再び
30歳の頃から閉ざしていた心を見せられ
浄化される出来事がありました。
「人は心を閉ざすと鬱になる」と
悟らされた後の
幸せが満ち溢れたあの感覚。
長い時を経て
若いころに体感したことは
現実のものだったと感じてから
自分と向き合う時間を増やすことで
日々の小さな喜びを
体感するようになりました。
振り返れば、
使命を忘れた時間は
遠回りに思えることもありましたが
あの「普通」という経験こそ
私に必要な学びの時間だったのです。
そして今――
私は「心理哲学」で心を整え
  「真理哲学」で魂を導く
それは占いを超えて、
心に刻まれた真理をひも解き
気づきと導きをすること。
みんなと共に幸せになることに
使命に感じています。
そして今でも思いは同じです。
私にとって
みんなは友達でありたいのです。
